第2回 中藤新田分水編
写真と文は加藤嘉六さん
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「中藤新田分水」と集落跡を、ちむくいメンバーで探訪しました。
ここは概ね国分寺市西町2~5丁目の国分寺崖線に沿った地域で、崖線上の地中に吞用水や生活用水となる「胎内掘」の水路、中藤新田分水が流れていました。
一方水を使う農家屋敷は崖線下にあり、上(水路)から下(農家)もまた胎内掘で通水していました。そんな「胎内掘」が特徴の集落です。
崖線下の農家屋敷と上の畑をつなぐ切通し、メンバーの足元辺りに胎内掘の水路跡があります。(2014.8.19撮影)
中藤新田分水「胎内掘」(2007年撮影)
崩落した胎内掘(別名タヌキ掘)を巣穴にするタヌキ。(2006年)
農家屋敷(2005年)
歴史を感じる崖線を削って拡げた農家屋敷。野菜を貯蔵したむろ跡や切通しなどもある。この写真の左奥に中藤新田分水(胎内掘)から水を引いていたトンネル(胎内掘)があった。(2006年)
胎内堀のイメージ図と中藤新田分水の位置図
明治30年代に描かれた分水利用の絵図(2007年)
この地区に残っている古井戸の中、2段にして更に深く掘ったと思われる。(2007年)
崖線上にあった茅葺屋根のこの屋敷は現存しません。家の裏に「どんどこ」とこの家で呼ぶ胎内掘がありました。(2007年)
胎内掘(どんどこ)を上から開渠にして利用していました。水は左から右に流れていました。この「どんどこ」胎内掘も現存しません。(2005年)
各所で跡形もなく地上から消えてしまう分水や集落跡にあって、よく持ち堪えていると思いますが、数年ぶりに訪れたこの地の風景の劣化も避けられない現実と見受けました。300年近くも続く集落跡が、なすすべもなくこのまま消えてしまうのは残念に思います。
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